June 10, 2012 18:17

「「日本」を捨てよ」by 苫米地英人

51%2Bbx1hjY%2BL


非常に面白い本だった。
2012/3/15に出版された本。
本はPHP新書で薄いので、2時間程でさらっと読める。

*****

この本では、苫米地氏は大きく分けて、以下の4点を述べている。

‘本人はなぜ立ち上がらないのか?
 ー日本人は権力者に都合良く飼いならされた奴隷であること。その奴隷システムがどのようにうまれたのか?

日本人はなぜ幸福を感じられないのか?
 ー未だに世界随一の経済大国でありながら、なぜ日本人はどことなく不幸なのか?
その原因となっている社会構造を分析。

そもそも、「日本人」「日本」とは何か?
 ー日本人の政治批判はどうして空虚なのか?そして、「日本人」との定義とは?

ぁ崙本」という枠組みを無くすにはどうするべきか?


*****


第一章で述べられていた,瞭睛董
この中では、日本はそもそも、どうしてここまで人の目を気にする国民性になってしまったのかが解説されていた。
その中の理由の一つで非常に面白かったのが、日本人の「村八分」が生まれた背景。

あるコンピューターシステムによる分析において、
一つの同じ言語を話す人々が、二つのグループに分けられ、
それぞれ別の集落で暮らすよう設定された。

その場合、メンバーのうち30%の人口が同じ集落に留まり続けると、「方言」が派生するらしい。
つまりは、その集落の中で、70%以上の人口が常に移動を繰り返している(その集落に出たり入ったりしている)状態にならないと、必ず方言が生まれるとのこと。

日本は、山が多く、また、川も多いため、老人や子供の力では、その村を出る事が難しい地形である。よって、実際にその村を出て他の土地へ移動が出来る若者以外は、その村に留まる傾向となる。
その結果、上の条件である30%以上の人口が同じ村に留まる可能性は非常に高くなる。
それが、日本が単一国家であり、同じ人種の人口でほぼ埋め尽くされているにも関わらず、世界的に見て非常に珍しい、「同一民族にも関わらず、幾つもの方言が存在している国」である証拠。

方言が生まれるということは、一つの「文化」を持ったコミュニティが形成されるということ。
そして同時に、それだけ沢山の方言が生まれるということは、その数だけ沢山のコミュニティが出来上がることであり、
その様な日本の状況においては、そのコミュニティ内を出た時に、他のコミュニティでやって行くのが難しくなる。(何故なら方言という「言葉」も違い、文化自体も違う為、全く別の国に行く様なものだから。)

よって日本の人々は、昔から、その自分が住むコミュニティ(恐らく自分が一生を過ごすであろう集落)で、いかに「心地よく過ごすか」、言い換えると、「いかに仲間外れにされないか」に神経を尖らせて生きて来た。

「村八分」の文化が生み出されたのも、これで頷ける。


*****


実際、現在自分は、仕事の関係であるところに来ているが、ここは、周りを山と川に囲まれた土地にあり、正に今回苫米地氏が述べている様な条件に当てはまるような町である。

方言は非常にキツく、その方言を町民全員が話すので、
「方言は存在しているけれど、町の人全員が方言を話す訳ではない」環境ではなく、
「町の人全員が、その方言をバリバリ話す」環境である。

(俺の母親、また父親は、それぞれ地方の出身であり、それぞれの土地には方言が存在する。しかし、その町や市に住む全員が、その場所の方言を、しかもコテコテの方言を話すわけではなかったので、自分の中で「方言」とは、段々廃れて来ているものかとの認識が少なからずあった。
なので、今の場所に移りすんでから、如何にこの町の独特の「文化」が力強く生き続けているかに、正直ビックリさせられた。)


よって、この町では、良い意味で昔からの歴史が残っている。
言ってみれば、「まるで昔から時が止まったかの様な」雰囲気に陥ることがしばしばある。

そして、俺はこの町を好きだが、
同時に、この町で一度仲間はずれにされるような状況に陥った場合、
ここで暮らして行く事は、難しいだろう、とも感じる。


*****


苫米地氏の今回のこの理論は、
非常に頷ける所があった。

それは、俺が18歳までを日本で過ごし、
その後、日本とはまるで対象の国であるアメリカで24歳まで6年間を過ごし、
その後、日本に帰って来て、また4年程過ごした今、
色々な所に住んだり、色々な国を訪れた経験を踏まえて、
日本に対して自分が感じることを、この論理は明確に捉えていたから。




日本人は、「周りの目」を非常に気にする文化を持つ国民であり、
だからこそ、全員が同じ考え、同じ生き方をする。
それを強制されていなくても、それに自然と従って行かないと、
風当たりが強くなり、生きづらくなってしまう国である。


これを、人々は「閉塞感」と呼び、
その結果、海外に踏み出すと、「まるで心から羽を伸ばせる様である」と感じる所以である。
(全員がそう感じるわけではないと思うが。)


*****


苫米地氏は別の表現で、
「パノプティコン」の例を出す。
これは、刑務所において、
常に24時間囚人が監視されているわけではなくても、
監視塔を真ん中に置くことで、
囚人は、「いつも見られている」というプレッシャーを無意識に感じ、
その結果、
果たして監視がされていないときでも、
囚人は、まるで監視をされているかのように、行動してしまう、
ということ。


苫米地氏は日本人がこのような傾向をもった別の理由で、
「日本が多神教の国」であることも挙げている。

例えば、一神教であるキリスト教やイスラム教などであれば、
同じ一つの神を全員が信じ、
その神の前では、誰もが無力となる。

しかし、日本の場合には、
「八百万の神」の言葉に代表されるように、
神は至る所にいるので、
「誰もが服従をしなければならない絶対的な存在」は無い。

そして、
日本独特の「お天道様がいつも見ている」の考えも手伝う事で、
「いつでも自分は、色々な目(神)から見られている」という概念が生じ、
結果、より、「いつも誰かに見られている」(上の村八分のアイディアと併せて)という無意識下の抑制がかかってしまう。


(ここで彼は、日本が多神教であるからこそ、「フェアネス」が存在せず、結果、上の位に付いた者を、絶対的に崇めてしまう傾向にある、とも説明する。

つまり、一神教であれば、金持ちだろうが、政治家だろうが、医者だろうが、
誰もが、一つの神の前では、「無力になる」という条件のもと、
そこで、「誰もが神の前では無力=みんな同じ」というフェアネスが存在するが、
日本の場合には、「絶対的な一つの神」が存在しないため、
結果、「偉い人は上に立つはず」=「上に立った人は偉いはず」の逆方程式が出来上がり、その結果、金持ちや政治家や学者など、何かしら社会的に権力を持った人間を、無意識に「彼/彼女は凄い人だ。上に立っているんだから」と見なしてしまう傾向がある、と述べる。
これも非常に面白いと思った。)


*****


そして最後に苫米地氏は、
「物事の本質を見極めるには、”具体的”の反対である”抽象的”視点に立ち、物事を上の広い視点から見ること」を説く。
これは彼が色々な本でいつも結論づけることであるが、
ここでは、これを「日本を遠い視点から見る事」に結びつける。

何か問題が起きたとき、
(例えば、今の日本に存在する様々な問題を解決しようとするとき)、
真面目な人ほど、目の前の問題に集中して考えようとする。
つまり、物事を”具体的”に見すぎて、アリンコの目になってしまうわけである。

その結果、行き詰まり、良い解決方法も出ないまま、終わってしまう。


それよりも、一度鳥の目で物事を上から見て、
そこに存在する「本質」を見抜く。


日本に対してもそれは同じで、
日本に今存在する増税問題、震災後の復興問題、TPP問題、社会福祉問題などなど、
それぞれ一つ一つを見て、「日本」という狭い国のことしか見えなくなるのではなく、
自分の思考は日本を飛び出し、
他の190以上の別の国々も視野に入れた、
より広い視野でこの世界を見て、
それから、「日本」という小さな国を見る事。

すると、そこに横たわる問題の核質、本質は、
以外と、同じ事に共通していることに気づく訳である。


******


この本の終わりで苫米地氏は、
解決策として、日本を「道州制」にして、
その土地にある道州毎に、法律も、税金も、学校のシステムも、
すべて変えてしまえば良い、と言う。

これはある意味、アメリカに非常に近い。
アメリカは州によって法律が異なり、
その別々の50の国をまとめあげるのが、
アメリカの政府であるようなものだから。

実際、アメリカでは、これもやはり一つの国であるために、
「アメリカ」というものに縛られなければならない現状も沢山あるが、
しかし、今の日本よりは、
その国の国民は、ずっと住み易いと思う。
少なくとも、自分で、自分の住む場所にかけられる法律を選ぶ権利がある。
(自分が住むその州の法律、ルールが気に入らなければ、別の州に移動してしまえばいい。)


しかし、これを日本で実行すると、
カリフォルニア州と同じ面積に、アメリカの人口の半分近くが密集しているわけだから、
これは流石に難しいんじゃないか、と思う。
そもそも、元々村八分の考えを持つ日本で、
これから、そこまで考えをガラリと変えて行くことも難しいだろうし、
頭がカチンコチンで自分の利権しか考えない政治家たち、及び官僚の層が、未だに「日本」という島国を固めているから。


だから、この日本に愛想を付かせて、どうしようもないと感じる人々は、
やはり日本を出て行くしかないと思う。


*****


話を元に戻して。

苫米地氏は、第二章の、「日本人はどうして不幸に感じるのか」にて、
「日本人は生まれた瞬間から、自分の生きる道を決められているからだ」というような記述がある。

つまりは、日本で掴める「成功」とは、
良い大学に入って、官僚になる、または、大企業に入るしかない、と。
そして、その道「しか」、幸せになる道はない、と。


人は、自分の未来に、限りない「可能性」を感じるとき、
心の奥底から、震える様な「喜び」を感じる。

自分は何でもできる、
この世界は広い、
自分次第で、何だってできる。

そう、「心から」感じられるとき、
人は、もの凄い自信と、同時に、
もの凄いやる気を感じるものだ。

それは、俺が留学時代、
または、様々な国を旅しているとき、
何度も感じたこと。


その「感覚」は、不思議と、
日本では感じにくい。

日本国内で「存在している」、上に書いたレールに置ける成功。
その道を歩む事を自らが、心から望んでいる人間であれば、
そして、そのレールに乗っかれた人間であるならば、
この日本という国での人生は、何よりも幸福であろう。

しかし、そのレールの上に用意された「幸せ」を、
心から「幸せ」と感じられない人間。
または、そのレールに乗ることすらできなかった人間。

その「人間」たちは、
日本という国に自らを置く以上、
常に、「自らに対する可能性」を、
「無限的に」感じることは、不可能となる。



それが、日本人が、
「どこかしら不幸である」所以。


つまり、日本には、
狭いレールしか用意されていなく、
その「用意されたレール」の上に置かれた「成功」しか、
「幸せになる方法はない」と、
誰もが、社会に思わされている。


*****


以上、
非常に共感する箇所の多い本だった。




最後に、
俺は、4年前に日本に帰って来てから、
アメリカとのギャップに違和感を感じ、
また、この「日本社会」に馴染めず、
悩んだ時期が続いた。


一時期は、
その「レール」に幸せを感じられず、
また、その「レール」に乗りたいと思った時には、
もう、乗れないことに気づき、落ち込んだ時期もあった。



しかし、俺は俺自身、
日本での生活に今は満足をしているし、
自らが求める「幸せ」を掴むことができている。

もちろん、社会的、そして自らのキャリア的には、
これからどんどんと進んで行く予定だが、
少なくとも、自分が進んで行く道、
そして、その道を幸せと思えるかどうかに関しては、
今では、自信がある。



苫米地氏は今回、「日本」という「国」に対してターゲットを絞って話をしており、
日本人一人一人が、どう生きて行くかに関しては触れていない。

最終的には、「自ら」が、いかに、
「心から」、「幸せ」と思える人生を生きられるかどうかである。


*****


まとまりの無い「まとめ」となったが、
色々と考えさせられた本。



2012/6/6 19:42





トラックバックURL

コメントする

名前
 
  絵文字
 
 
Archives
記事検索