May 13, 2011 00:45

"STONE"

Poster_of_Stone_(2010_film)


2010年の映画。

非常に深い話だった。

主要登場人物は、
ロバート・デ・ニーロ扮する釈放管理官のジャック、
エドワード・ノートン扮する放火犯で刑務所に収容中のストーン、
そしてミラ・ジョヴォヴィッチ扮する、ストーンの妻のルセッタ。

この3人の人間劇と、
デニーロの奥さん役のマデリンが出て来る。

*****

まず、エドワード・ノートンは演技がウマすぎね。
彼は、「ファイトクラブ」などでもいい味を出していますが、
本当に役に成り切るよね。

今回も、若い頃に放火をした罪で
ムショに入っている、ドレッドヘアの白人を演じるんだけど、
喋り方とか雰囲気とか、いかにもゲトー出身のチンピラで、
昔からこんなんだったじゃないか、
という雰囲気を最初に出していました。

そして、話が進むに連れて、
彼は「神」というものに興味を持ち出し、
一度啓示的な体験をした後は、
一気に表情も変わります。

途中、デニーロと部屋で話すシーンなんかでは、
彼(ノートン)的には、何かを悟ってしまって、
もうムショを出ようが出まいが、どうでも良いんだけど、
その時の彼の雰囲気とか喋り方が、本当にその役を演じ切っていました。

Stone-movie-de-niro-norton



*****

そして次に、ミラ・ジョヴォヴィッチ。
彼女も、随分と小悪魔的な役を演じていました。
めっちゃ邪鬼が入っていたね。

いかにもノートンの妻、という感じで、
その安っぽさというか、
売春婦的な雰囲気が、プンプン漂っていました。

stone-pic-milla-jovovich2


*****

そしてやはり、デニーロさん。

彼の貫禄はもう、マフィアのおっさんを通り越して、
ただの疲れた引退前のオッサンでしたね。
(いや、そういう役を演じ切っている、という意味のジョークですが)


もう、演技なのか、
素のままなのか、
それさえも分からない様な演じ方でした。
それほど、自然体、ナチュラルです。

*****

そしてこの映画のテーマは、
「"神"とは何か」
「聖書で話している、”神”とは何か」
「何が悪で、何か正義なのか」
から始まり、

罪とは何か、
罪を犯すとは何か、

刑務所に入っている人は、皆罪を”犯した”人で、
だから悪い人間なのか、

刑務所に入っていない人は、
人間の作った法律を越えた事をしていないから
刑務所に入っていないだけで、
だからといって、その人たちは、全く悪くないのか、



そんな事も話していました。


ノートン演じるストーンは、
若い頃、ある理由で、家を燃やした訳ですが、
彼がなぜ、それをしてしまったのかを、
ムショを出る直前に、デニーロに話すシーンがあります。


そこで彼のいうことは、恐らく真実そのままだし、
彼のいうことは、真理に近いものだと思います。

つまり、
「人間は、神の一部であり、
この世の中で起きる全ての事は、
神が元々最初から決めていたことだ」と。

しかし、そうなると、
放火をした彼の行いは、
”神”が元々決めていたから、悪くないのか?となるし、

ならば、デニーロが毎週通っている教会で説かれる”神”は、
”righteousness”(正しさ)を信じて教会に通う彼らに対して、
”真理”を教えようとするけれども、
でも、そんな神が、放火を犯したストーンの行動をも、
最初から決めていたとしたら?


そんな矛盾が生じて来て、
すると、神とは何ぞや?
悪とは、過ちとは何ぞや?
となってくる訳です。

*****

映画の冒頭のシーンで、
デニーロと奥さんが、まだ若い頃(恐らく20代後半か30代前半)
のころに、
デニーロがあまりにも奥さんを相手にしないので、
奥さんがたまりかねて、
家を出ようとするシーンがあります。

するとデニーロは急に立ち上がり、
”ある事”をしようとします。

まあ、これが恐ろしいんですが、
そんなshort temperな性分をもった彼も、
もしかしたら、その”ある事”をして、
刑務所に入っていたかもしれない。

逆にストーンは、
放火をした理由が、
悪意があったわけでは無かったので、
2人の人間の心の状態から比べると、
デニーロの方が、ストーンよりも、
悪かったのかもしれない。
人間として。

*****

そんな事が、色々混じってくるわけです。


そして気になるのは、最後のシーンで、
デニーロの家が、夜中に燃え盛るシーン。


その燃える家を背に、悪態をつくデニーロ。

それに対して、それまで生気のない顔をして
日々を過ごしていた奥さんが、
ぐわっと目を見開いて、デニーロに怒鳴ります。

「全ては、最初から決まっていたのよ!
これも神が決めた事なのよ!」

そして、あるセリフを言うんですが、
これに対してデニーロが、
「それをわざわざ消防隊員に言う必要があるのか?」と聞くと、
奥さんは、「こうなってしまったら、何もかも同じよ」と
一言呟きます。


これが恐い。
そのセリフは、何を意味するんだろう?


*****

結局、この映画では、
もしかしたら、キリスト教が多いアメリカにて、
教会に通い、盲目的に聖書を信じ、
ジーザスを信じていれば、
それで人は”正しい”、というお決まりごとがある、
アメリカにおける、人のモラルについて、
客観的に問いただす内容かもしれないし、

もしかしたら、
神は本当にいて、
その”音”を聴いたとき、
初めて人は、神の本当の声に近づく、
というメッセージが言いたいのかも、しれないし、

それも全て俺の考え過ぎで、
ただ単に、ミラ・ジョヴォヴィッチのエロい演技を楽しんでくれ、
という映画かもしれないし、


まあ、とにかく、
色んな意味で、考えさせられ、
非常に、”恐い”映画でした。

(”恐い”というのは、
人間の深層心理に近づく、という意味で、
そう、村上春樹の小説の様に。
また村上春樹が出て来ました。)

*****



余り、夜中に観る映画ではないですな。
引きずりますな、これは。

2011/5/13 0:45










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