March 21, 2011 22:49

「悪魔とプリン嬢」by パウロ・コエーリョ

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3月18日から読み出して、
毎日ちょこちょこ読んで、
今日読み終わった。

「アルケミスト」を書いたブラジル人作家、
パウロ・コエーリョの作品。

先日本屋で、彼の新作、
「マクトゥーブ」を見つけて、
その巻末のところで、
彼の他の作品の名前を目にして、
「ブリーダ」という作品が気になっていた。

先日成田図書館に行った際に、
ブリーダを探している時、
この本も同じ棚に目にした。

この本自体も、
初めてアルケミストを読み終えた
2006年くらいから気になっていたので、
ブリーダと両方借りて来たが、
先にこれを読み始めたので、そのままの流れで完読した。

*****

前置きはこれくらいにしておいて、
肝心の本の感想に関して。

まず、
パウロコエーリョ独自の、
その物語特有の世界観が描かれていた。

彼の作品では、
その登場人物が数人いる中で、
必ず全ての人物の主観から、考えや物事を
書き進めることが多いので、
その作品に登場する人物の数だけ、
より多くの人の見方、考え方を学ぶ事が出来る。


この作品は、世界のどこかにある、
ヴィスコスという小さな村にて、
ある異邦人がやって来て、
その男が持ちかけるある話により、
題名にも名前の入っている、シャンタール・プリンという名前の女性が、
自分の中に眠る善と悪の葛藤に苛まれながらも、
村をどう救うか、
という葛藤を中心に置きながら、
登場する多くの人の心の葛藤に焦点を当てた作品である。


この作品のテーマは、「悪」。
彼も最初の前書きで語っているが、
1994年の「ピエトラ川のほとりで私は泣いた」、
1998年の「ベロニカは死ぬことにした」
に続き、3部作目となる。

1作目の扱ったテーマは、「愛」について。
2作目は、「生と死」について。
で、この作品は、「善と悪」について。


彼の作品は、
毎回、「善と悪」なり、
カトリックの教えなり、
「神」や「天使、悪魔」なり、
そういったものが主要のテーマに成ってくるわけですが、
今回も、多くのエピソードが盛り込まれ、
読んでいて、その世界にのめり込む事ができれば、
非常に面白い作品だった。

*****

彼は、「信仰」というものに、
信じる心と、それ以外にも、
それを疑う心の、二つを持ち合わせて、
常に作品を描いていく。

彼の生まれたブラジルは、
カトリックが多い訳だけれど、
だからと言って、キリスト教の教えを盲目的に描くのではなく、
それを逆サイドから疑うことも持ってくるし、
世界中の他の宗教を持ってくることもしばしばある。

彼の作品は、扱っているテーマが重い事から、
一件、重苦しく、宗教じみた作品になってしまい易いこともあると思うが、
それでも、そうならずにバランスを保つ事ができているのは、
彼の中に、
「一つの宗教は、この広い世界の中にある、
一つの考え、またはものの見方であるに過ぎない」
ということを分かった上で、そういった作品を書いているからだと思う。


(例えば良い例として、
「アルケミスト」の中で、
主人公を含めた一行が、砂漠を何日もかけて
横断するシーンがある。

そこで、その一行をまとめるリーダーが、
全員に対して声をかける。
「それぞれが、
自分の信じる神に、お祈りをしてください」と。

この文章を読んだ時、
俺は、アメリカにいて、少なからず、
周りにはクリスチャンが多く、
ジーザスだけが絶対なんだ、
という考えに辟易して、そういう一方的な押し付けがましさに
反発をしていた頃だったから、
彼が、作中にて、このように
「それぞれの人には、それぞれの信仰や宗教があり、
お互いの信じるものを敬う(今風に言えばリスペクトする)」
という態度に、非常に感銘を受けたのでした。)

*****

日本にいると、そういった世界に触れる事は少ないし、
(一般的な日本人の生活に、
宗教を通した”信仰”というものは、根強くついていないから。
それは、他の国に比べて、という意味で)
また、彼が作中に良く持ち出す、
スピリチュアルなメッセージにも、
日本では、そういった感覚に触れる事が、
余り無いと思う。

だが逆に、世界を旅したりしていると、
そういうシンクロナイズ的なメッセージや
機会に触れる事は多くなり、
そんな時に、彼の作品を読むと、
よりすんなりと、彼の作品の世界観が
体にすっと、染み込んでくることが多い。
少なくとも自分の場合は。

****

今回の作品も、
「善と悪とは何か」
「天使と悪魔とは何か」
「人生においてのメッセージとは何か」
「人は、どのように心が弱くなったり、強くなったりするのか」
ということを、深く掘り下げていて、
非常に面白かった。

次は、ブリーダを読んでみたい。

*****

一つ文句を言うならば、
この本を訳した旦啓介(だんけいすけ)氏の文体について。

殆どの外国の作品の翻訳というのは、
直訳に拘っているのか、
どうも、「文章の流れ」というものが欠けていることが多い。

要するに、読んでいて「読みにくい」。

最近村上春樹の本ばかり読んでいるからか、
そして、俺が村上さんの本が好きな理由は、
その作品の世界観よりも、
その文章の「読み易さ」に重点を置いているからか、

他の作家の作品を読んだり、
特に、こういう、外国作品の翻訳作品を読むと、
その文章の流れの無さに、
読んでいてガッカリしてしまうことが多い。

イメージで言うと、
村上氏の文章は、
「一つの綺麗な球体」というか、
表面がすべすべした、
流れる水のようなイメージなんだけれど、
こういう翻訳本だったり、
本の中身は良くても、
「文章」自体がヘタクソな作家の文章は、
文がトゲトゲしているというか、
その文体に自らを慣らさないと、
中々読み進めるのが難しい。

イメージ的には、
ささくれ立った、所々にある岩を、
タンクローリーで、一つ一つ押しつぶしながら読んでいる感じ。

もしくは、その作品の世界観に、
完全に没頭するしかない。
そうでもしないと、すぐにそのトゲに気が行ってしまう。

*****

今回、パウロコエーリョさん自体には
それは関係無い問題なので、
この作品のレビューには関係ないのですが、
ただ、訳と、その文章の文体が余り上手くないという理由だけで、
一つの良質の作品が、
ベストセラーにも、
または、駄作にもなってしまうというのは、
一人の作家が、自分の作品を、
自分の母国語以外の国で売るに当たり、
毎回直面する問題だと思う。


または、読者自身が、
その作品のオリジナルの言葉をマスターして、
その母国語のままで、その作品を読めるのが一番なんだけどね。
(俺はポルトガル語を読めませんが。)

*****

とにかく、
読むのにちょっと時間はかかりましたが、
とても面白い作品でした。

パウロ・コエーリョの持つ、この独特の世界観が好きです。


2011/3/21 22:49



追記;
彼の作品で、今まで読んだ作品。
年代順に。

『星の巡礼』(O Diario de um Mago、1987年)
『アルケミスト - 夢を旅した少年』(O Alquimista、1988年)
『ピエドラ川のほとりで私は泣いた』(Na margem do rio Piedra eu sentei e chorei、1994年)
『第五の山』(O Monte Cinco、1996年)
『ベロニカは死ぬことにした』(Veronika decide morrer、1998年)
『悪魔とプリン嬢』(O Demonio e a srta Prym、2000年)








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