July 02, 2009 23:50

「点」から「球」を見る

2009年 7月2日(木)

昨日の晩から、和人が泊まりに来た。
今日、タイヘ2週間の一人旅に行くため、
昨日はうちへ一泊して行った。
今日は2人で、横浜中華街等を周った。


和人と話していて、学ぶこと、感心することが、
本当にたくさんあった。

和人は鍼灸の先生。
鍼灸の道にかけては、本当に凄い人。
今回も、脈を見てもらったり、
舌診(舌の色や様子を見て健康状態を判断する)をしてもらったり、
お腹を押さえて、簡単な治療をしてもらったりした。

今回、和人と話して、体のことについてとか、
鍼灸のことについてとか、
感心することがたくさんあったけど、
一番驚いたのは、
今朝、中華街の地元民の店で、
お粥を食べながら聞いた話。

このブログの題名にも書いたが、
「点」から、「丸」(球体)へとものの見方を変えること。

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この世の中で、一番調和が取れた完璧な形は、
「丸」であるという。
だから、地球も丸いし、原子も丸い。


その「丸」の話がどうしたかと言うところだが、
和人に、中華街に行く道の途中で聞いた話から
発生した話が、元となった。

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最初、和人がどうして、鍼灸の道に入ったのかを聞いていて、
彼が最初に鍼灸の学校に通い始めたときに、
その頃に出会った一人の先生との出会いの話となった。

そこから、占いの話となった。


昔、それこそ卑弥呼の時代から、
国の情勢を予測するのは、占いが一番の方法だった。
そしてその次に食、
そして最後が、医者であった。

まずは何も起こっていない状態で、問題が起こる前に
先のことを予測して、国だけでなく、個人も、自分の先行きを決める。
それが、「占い」。

そして次に、食を通して、
自分の運勢をよくする。
それが、「食養生」。

そして最後に、体が悪くなってしまってから、
それを良くするために生まれたのが、
「医学」。


その流れを聞いて、
もともと占いの仕組みとは、どう生まれたのか、
それを和人に聞いた。

俺は最初、
「例えば、木の棒を投げたら、それがある方向に落ちて、
それが起こったときに、物事がこうだったから、
木がこの方向に落ちたら、物事はこうなる。
そんな感じに統計を取っていったの?」
と聞いたら、
「そうやっていたら、何万年かかっても、
物事の仕組みは分からない」と。

そんなわけで、「占い」の元々の仕組みがどう生まれたのかを、
その後入ったお粥屋でじっくり伺った。

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結論から言うと、
占いとは、完全な「科学」である。
そして、鍼灸の道、
東洋医学の道も、完全な「数学」である。


物事の全体像を捉えたものを、「事象」という。

そして、その事象、つまり、
この世の中の「仕組み」を解き明かそうとしたものが、
「占い」の始まりである。

しかし、その「事象」。
一つ一つ解明して行ったら、上に書いたように、
何万年かかっても解決しない。

だから昔の人は、
物事をカテゴリーに分けて、
大まかな仕組みを作った。

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平面の円。
これを一つ一つ分けていったら、360度、
全ての方向に線が伸びる。
でも、それをタテヨコ4つに分けて、
更にそれを4つに分けたら、
全部で8つの方角となる。

まずは、この「8つ」の方角を、
大きなカテゴリーとする。

これは、「当たるも八卦」の諺にあるものと同じ。

そして、今まで平面だったもの(つまりX軸)に、
更に縦の面(Y軸)の8つの方角も入れる。

すると、8×8で、64。
つまり、64個の「方角」というか、カテゴリーができる。

この64個の大まかなカテゴリーで、
この世の全ての事象をつかさどる「丸」、
つまり「球」を分けた。


占いとは、この64個のどこに、
その状態があるかを元に、
全ての動きである事象を読み解くものだという。

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例えば、俺が和人に脈を見てもらうと、
今自分は風邪を引いているとか、
喉が痛いとか、
脈が内向きであるとか、
昨日豚肉を食べたでしょ?とか、
そういったことを、簡単に言い当てられてしまう。

それは、まるでマジックのように見えるけど、
実は、それは完璧な「数学」であるという。

この脈のときは、この症状だから、
こうなる、
というような方程式に則って、和人は俺の症状を言い当てる。

それができるのは、和人が今まで何千人もの人の脈を見てきて、
その経験と知識より、
この脈のときは、こういった状態である、
という方程式を知っているから。


そして、そうやって言い当てる和人だが、
脈を診ると言っても、正直それは、ただの「脈」であり、
言ってみれば、どの人の脈も、大して変わりはないわけである。

しかし、その微妙な違い、
つまり感覚の世界のものを、
和人は感じ取って、そして、それを元に、
俺の今の体の状態、
つまり、全体像である、
「事象」を見ようとしている。


そして同時に、「豚肉を食べたときの脈」と言ったって、
いい豚肉を食べたときの脈と、
悪い豚肉を食べたときの脈も違うし、
そうやって言っていけば、
水を飲んだとき、
チョコレートを食べたとき、
お腹が痛いとき、

全ての状態、症状の脈は、
全て種類が違う。


しかも、その「違い」は、
感覚と経験でしか本当に気付けないような、
そんな、微妙な世界。


だからこそ、
「豚肉を食べたときの脈」
というような簡単な方程式は無いわけである。



だからこそ、和人が、「俊輔は昨晩豚肉を食べたでしょ」
と言うときは、
俺の脈を診たと同時に、
俺の話を聞いて、
「昨晩、中華街に行ったと言っていて、
 夜は何時ごろ食べたってことで、
 それで、このタイプの脈だから、
 きっと豚肉に違いない」
と、そういう風に答えを導き出して行くという。

つまり、
全体の事象において、
「脈」という、一つの手がかりと、
更に、他の幾つかの手がかりから、
今は64個のカテゴリーの一つか二つしか見えていないけど、
それらの情報を元に、
全体像である、「事象=球体」を見極めようとしているのである。


それが、和人が、俺の今の体の症状を言い当てる仕組みであり、
東洋医学における、「占い」の仕組みでもある。


ほんの小さな一つの「ヒント」から、
物事の全体像を見極めようとする。

そんな凄いことを、鍼灸師である和人はやっている。

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上の話、言い換えると、
例えば、グラスに入った、一杯の水。

それを見て、
「水がある」と見ることもできるし、
「グラスがある」とも見れるし、
温度の観点で言えば、「冷たいものがある」と見ることもできる。

つまり、グラス一杯の水でも、
色々な角度や視点から見れば、
様々なものとして見ることができる。


和人が、俺の「脈」を見るときは、
例えば、「水」を見ている。

それと同時に、俺の色々な話を聞くことで、
グラスに付く水滴を見て、
温度を予測して、
その水が入ったグラス全体像を見極めようと
しているわけである。


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そして、今日凄いなと思った話は、
和人の師匠の師匠である人の話。


実際に起こった話だが、
ある日、和人の師匠が、その師匠である方の
講義を聞いているとき。

外で突然、凄い音がして、車の大事故が起こった。

外に出て行って、それを見た和人の師匠。

教室に帰ってきて、
自分の師匠に言った。

「師匠!外で大きな事故が起きました!大変です!」

すると、それを聞いた師匠は、
教室の中にいながら、外に行って事故現場を見てもいないのに、
こう言った。

「今は何時何分で、外の天気はこんな感じで、
 今日はこんな状態か。

 大丈夫。その事故にあった車の中の人は、何も怪我をしていないよ」


実際に、その事故にあった人は、
車が大きく破損する事故だったにも関わらず、
本当に無傷だったという。

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こんな風に、一件信じられないようなことを、
この師匠は、沢山していたという。
そして、それを間近で見ていたのが、
和人の師匠である人。


この、和人の師匠の師匠は、
なぜ車の事故現場を見ずに、物事を言い当てたかというと、

つまり、
「この時間で、この天気で、この日付で、
その時に事故が起きた」
というように、その時外で起こっていた「事象」
を、幾つもの「ヒント」から、
その「全体像」を捉えていたわけである。

コップの話にすれば、
ただの一滴の水の情報から、
外に水滴がついた、冷たいグラスの全体像まで、
見通してしまったというわけである。


もちろん、これが出来るようになるには、
相当の経験と、知識がなければできない。

この方も、自分が30歳のときに、
自分が生きている時代の人の中では、誰よりも脈診に詳しくなり、
60歳で、東洋医学、西洋医学等、
全てをマスターし、
そして60歳以降、
この力を付けていったという。


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たった一つの「現象」から、
物事の全体像を見抜く。

つまり、一本の木から、
その森全体像を見抜く。

一つの点から、
その点が存在する、球の世界を見抜く。


この師匠は、こんなことが出来るわけだから、
この世の中のこと、どんなことにも精通していたし、
知識も生半可ではなかったという。

西洋医学の薬の名前なんかも、
どの医者よりも、詳しかったという。





つまり、この世の中にあるもの。

色々なものがあり、
バラバラに見えるが、
全ては、「一つ」であるということ。


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昔、俺がひろぽん(アメリカ時代のルームメイト)
と初めて会ったとき、
法律の勉強も、数学も、経済も、
テニスも、料理も、
ピアノも、サックスも、
何でもやる彼を見て、
「何でヒロさんはそんなに何でも出来るんですか?」
と聞いた。

すると彼はこう答えた。


「全ては一つなんだよ」


要するに、この世の中のものを、
一つ一つ区切って考えてしまうから、
自分には「できない」分野があると思ってしまう。

だけど、全ては一つ、繋がっていると考えれば、
何だって、できる可能性があるわけである。

その話を思い出した。

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それから、
その時、俺は和人の話を聞いていたが’、
普段なら、前で話しているその人が発する、
話の内容にしか集中しないが、

ふと、考えて見た。

今、こうして目の前で話す和人の話す内容。
その話をしている、和人の姿。
彼の着ているもの。
その後ろに広がる、中華料理屋の風景。
店の中にいる客たち。
そこにある、「雰囲気」。

そんなもの、「全て」を捉えながら、
物事全体を見るように、この世を見れば、
今まで気づかなかったこと、色々なことが、
見えてくるのではないか、と。


その店を一歩出て、
外を歩いているときも、
周りをよく見て、観察するだけで、
今目の前にある「現実」の「事象」(全体像)
が、見えてくるのではないか。

または、今は見えなくても、
そうやって物事を見ていくだけで、
段々と、今は気づかないことに、
気付いてくるのではないか、と。


和人と話した。

「今まで見えなかったことが、パッと見えるようになり、
 そうやって、今までは『これだけ〜』と思っていたものが、
 実は、もっともっと大きかった。
 そんな風に、自分が『きっとこれだけ』、
 そう思っていた『もの』の大きさが、
 実は想像以上に大きかった、
 つまり、その『可能性』の大きさを改めて知ったとき。

 その時、物凄く嬉しくなるし、この世の中の可能性の広さに、感服する」と。


それは、この世の中の物事だけじゃなく、
人の可能性にも言える。

自分が、『きっとこれだけ』と思っている、
自分自身の可能性。

その大きさが、実は、自分が想像していたものよりも
何倍も、何十倍も、何百倍もデカいと知ったとき。

そんな時、人間は、嬉しくなる。

自分が、自分が想像する以上に、
自分の人生を、デカく生きることができる。

そう思えるから。
そう、感じるから。

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この世の中のことは、自分が知っている以上に、
面白くて、広くて、色々な可能性を秘めている。

そして、全ては、一つである。

そう考えると、今この世界に生きている、
それだけで、もの凄いことだって、気付く。


人生は一度きり。
今、自分が数十年生きて生きて、自分がそう思っている
「人生の可能性」。
それは、自分が今までの経験により判断した、
当ての無い、ただの思い込みでしかない。

宇宙は、広い。
そして、自分の人生の可能性も、無限にある。


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そんな風に、ここに書いたことは
今日話した中のほんの一つのことだが、
和人と色んな事を話し、色々学ばせてもらった。

タイへの2週間の手ぶらの旅
(本当に手ぶら、バックすら持っていない!)
に行って帰ってきた後、
また和人はうちに泊まる予定。

今から楽しみである。


2009/7/2 11:34pm


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コメント一覧

2. Posted by Shun   July 07, 2009 01:51
サキさん、
うん、俺の周りには面白い人が沢山います。皆それぞれ自分の道を突き進んでいて、とても尊敬できる人たちです。
1. Posted by 早   July 03, 2009 07:11
相変わらず俊輔の周りには興味深い人がたくさんいるね!
そういう話を聞いて、すぐに色々なことに例えられたり、感じたりする俊輔のなんていうんだろ〜、柔軟性?感受性?にも感心しとります。

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