November 08, 2007 23:52
「人はなぜ、生きるのか」
今晩はネットも繋がらず、食事も早めに済ませたため、俺は本を読んだり、彼女と一緒にDVDを見たりしていた。
10時ちょっと前には、彼女は疲れたということで、先に眠ってしまった。
俺は一人で、村上春樹の本を読んでいた。
読み終わって、その感想を彼女と話し合いたかったが、それが出来なかったので、何か寂しかった。
***
さっき彼女に、普段の感謝の気持ちをこめて手紙を書いたが、
そこにも書いたように、彼女という人がいるおかげで、俺の人生は、ずいぶんと変わったと思う。
俺の人生自体はそんなに変わってないのかもしれない。
ただ、自分の考えが、そして、自分の心の満たされ方が、思いっきり変わった。
人を愛し、愛されるということが、どんなに自分の心を満たすかを、
自分の人生を、充実させるかを、実感している。
***
最近、あるクリスチャンの人と、「人生の目的」みたいなものを話し合う機会があった。
アメリカに住んでいるということもあって、俺の周りには、アメリカに来た当初から、常にクリスチャンの人が多かったたが、彼が今回、ある本を題材に、「人生を生きる目的、その意味を話し合おう」ということになったのだ。
ある日彼は俺に聞いた。
「何のために、自分はこの地球にいると思う?」と。
なぜいるか? それは分からない。
どうして、この世があるのか。
なぜ、宇宙があるのか。
なぜ、地球があり、なぜ、そこに人類がいるのか。
その理由は、分からない。
彼は言う。
「自分の人生の、本当の目的も知らずに、ただ、学校に行って、会社に勤めて、結婚して、子供を産んで、子供の成長を見守って、自分も年老いて、80歳か90歳になって死ぬ。どうせ死んじゃうんなら、そのどれも、虚しい」と。
「人は、どうせ死んじゃうんだったら、この世に何も残らないんだったら、
結局、この世で頑張って出世したり、金持ちになったり、いいモノを持ったりしても、虚しい」と。
俺は最初、この意見を聞いて、すんなりと納得ができなかったが、
どうも、その意見に、反論できなかった。
「どうせ死んじゃうんだったら、この世の中の、何物も、”虚しい”」と。
”虚しい”。 そうだろうか。
その時は反論できずに、「じゃあ、あなたは、どうこの人生をどう捉えるんですか?」と聞くと、
「この世の中の人生は、この世から自分の命が消えたとき、あの世での永遠の世界があり、そこに行くためのテストだ」と。
「神は、人間を試すために、この世に送った」と。
「そして、この世界で、神を崇拝し、よい行いをし、神が自分に与えられた”目的”をこなして、あの世での永遠の世界に受け入れられる」と。
「その、”本当の目的”を知らずに、ただこの世であくせく働いていても、ただ虚しいだけなんだよね」と。
***
俺はこの意見を聞いたとき、何か面白くなかった。
永遠の世界があるかどうかは分からないが、
それよりも、まるで、この世で、神や永遠の世界を信じない人、
彼らが言う、「神が与えられた、本当の目的」を知らずに、ただがむしゃらに働いている人、
つまり、俺を含める、そういう人たちの生き方を、下に見られたようで、
どうも面白くなかった。
「じゃあ、その、”神が与えられた、本当の目的”とはどうやったら見つかるんですか?」と聞くと、
「それは、神の存在を信じ、彼を敬い、神にお祈りすることから始まるんだよね」と。
そして、その永遠の世界とは、誰が見たのか、
そのことは、誰が、どうやって知ったのかと聞くと、
「それは聖書に書いてあるんだよね」と。
果たして、この世の中のこと全てが聖書に書かれているとは思えないが、
そうやって言う彼の意見の、クリスチャンのアイディアに反論してもしょうがない。
それは一つの「考え」で、一つのものの見方でしかない。
それは、その人たちが持つ、信条でしかない。
人の信条は変えられないし、変えようとも思わない。
ただ、自分のがいいと思うからと言って、
それを、相手にもいいはずと、
「押し付けるな」ということだ。
押し付けが始まった時点で、
その人は、相手の考えよりも、自分の考えの方がより良いと考えている他ならず、
それは、自らの考えと、相手の考えとの比較であり、
一度比べてものごとを見た後、それを薦める以上は、
結局、押し付けにしかならないのだ。
相手がいくら、自分のすすめる「それ」が良いと思っていても。
有難迷惑でしかない。
***
結局、彼とは、その「人生の目的」について、1時間ちょっと話し合ったのだが、
結局、彼の言うポイントとは、
「この世界は神が作ったものであり、
人類がこの地上に生を授かるのは、神が一人ひとりに与えられた”目的”を果たすため。
そして、その目的を果たし、ジーザスを信じ、神に仕えたものだけが、
”永遠の世界”に行ける。
そして、この世での人生とは、永遠の世界で生きるための、予行練習でしかない」と。
もう一回言うが、その考えを、否定しようとは思わない。
神がこの世に生まれた一人ひとりの人間に、その生きる「目的」というのを与えたというのは、自分もそういう風に捉えるし、反論はしない。
ただし、永遠の世界があるかどうかは、分からない。
永遠の世界で生きたいかどうかも分からない。
この世で、せいぜい80年しか生きられないからって、悲観もしない。
彼の言う意見は、「ああそうですか」と聞く以外、他に意味はない。
その考え方に反論しても、それはクリスチャンの考えだから、
何を言おうが、のれんに腕押しである。
ただ、今回の自分のポイントは、
「人は、なぜ生きるのか」ってところだった。
***
その答えが見つからず、しかし、そんなものはすぐには見つからず、
じばらく悶々としていた。
「人は、なぜこの世にいるのか」。
それは分からない。
それこそ正に、「神のみぞ知る」ってところだろう。
そこは、人類永遠の謎だと思う。
そこの、誰もが知りもしないし、分かりもしないところを、
「ほら、あなたも答えられないでしょう?でも、それは聖書に書いてあるんですよ。だから、一緒に神に祈りましょう」って言われても、
誰も答えられない難題をふっかけられて、それに答えられない人を責めているに他ならず、悪徳商売のなにものでもない。
結局彼らも、その自らが「答えられない」答えに、自分なりの回答を見つけることが出来なかったために、聖書に書いてあるものを受け入れたにすぎない。
”どこか”に書いてある、”誰か”が書いた答えを鵜呑みにするなんて、
そんなの、人生の手抜きみたいではないかと思ってしまうのは、
俺だけだろうか。
しかし、「人は、何のために生きるのか」。
この質問には、誰もが、自分なりの答えを出せるだろう。
仕事を生きがいにする人。
会社での昇進を生きがいにする人。
モノを作ることを生きがいにする人。
スポーツをすることを生きがいにする人。
料理を作ることを生きがいにする人。
人を健康にすることを生きがいにする人。
音楽を作ることを、生きがいにする人。
人を喜ばせることを、生きがいにする人。
文章を書くことを、生きがいにする人。
誰かを愛することを、生きがいにする人。
自分の家族を、生きがいにする人。
自らの人生の成長を、生きがいにする人。
違う国へ行くことを、生きがいにする人。
それぞれ、その人なりの「生きがい」が、あるだろう。
しかし、俺が話したクリスチャンの彼が、
最初に、「そのどれもが、神の存在、目的を知らずに生きている限り、虚しい」
「人生どうぜ、死んでしまうのだから、この世でどんなに頑張っても、結局は、虚しい」
そう言ったとき、どうも受け入れられなかった。
上に挙げたどの「生きがい」も、虚しいというのか?
どうせ死んでしまうのだから、何をしても、「虚しい」というのか?
まるで、自分の生き方を、そして、
人生、自分なりの「生きがい」を見つけて、頑張ってる人の生き方を、
否定されてるようで、
どうも、納得が行かなかった。
***
結局、最初に、
「何のために人は生きるのか? いずれ死んでしまうと分かっていながら」
と聞かれた質問への、自分なりの答えは、
今日出た。
それは、「人は愛するために生きる」ってこと。
俺は今の人生、満たされている。
彼女がいて、毎日一緒に話し合って、時を共に過ごして、
愛情を感じているから、
心の底が、満たされている。
彼女を「愛し」、彼女に「愛される」ことで、満たされている。
絵を描くことも、自分は絵を描くのが、「好き」だから。
絵を描くことを、「愛して」いるから。
絵を描いて、何になるわけでもない。
「どうせ、あなたは死んじゃうんでしょ?」
それはそうですよ。
でも、自分は絵を描くのが好きだから、描く。
この世の中に、自分が生み出した何かを、カタチにするのが好きだから、
描く。
描く理由なんてない。好きだから、ただ描く。
本を読むのもそう。
「楽しい」から、読む。
新しい話を知り、知識を蓄え、自分の中身が、貯蓄されていくのを感じるのが好きだから、読む。
「どうせ、あなたは死ぬんでしょ?」
そうですよ。
でも、自分が、本を読むことを通して、成長していくことを感じられるのが好きだから、読む。
人に会うのもそう。
世界を旅するのもそう。
色々なものを見て、新しい体験をして、吸収して、自分の視野が広がるのを実感して、自らが、「成長」しているのを感じるのが好きだから、旅をする。人に会う。
仕事をするのだって、生活をするために、お金を稼ぐ意外に、
その仕事を通して、自分が新しいことを学んで、成長しているのを感じるのが好きだから。
その仕事を通して、今まで見えなかった、社会の違う面が見えるようになることが好きだから。
新しい人と会って、触発されるのが好きだから。
だから、働く。
ご飯を食べるのは、生き残るために食べる以外に、
「おいしい」から、食べる。
映画を見るのは、何かを感じ取る以外に、
それ自体が、「楽しい」から、見る。
本を読むのも、「楽しい」から。
絵を描くのも、「楽しい」から。
サーフィンするのも、「楽しい」から。
そして、彼女を愛するのも、彼女が「好き」だから。
彼女のことが「愛おしく」、大事に思うから。
***
「嬉しい」「楽しい」「好き」「おいしい」
「気持ちいい」「面白い」「愛おしい」
そういう感情って言うのは、「生きてる」からこそ感じられるものであって、
これは、自分が死んでしまったら、もう感じられない。
「どうせいずれ死ぬんだから、このどれも、意味がない。虚しい」
と言う方が、”虚しい”と思う。
あの世に永遠の世界が本当にあるかどうかは分からないが、
その世界で生きることを楽しみに、
この世で生きることを、「虚しい」と感じていては、
それこそ、「虚しい」。
それは、今、目の前にあるものに向き合おうとせず、
目に見えない、「何か」を心の頼りに、今目の前にある、素晴らしいものたちから、目をそらして生きているようにしか感じられない。
海に行けば、素晴らしい夕日が見れるじゃないか。
公園に行けば、綺麗な花が見られるじゃないか。
俺はそれらを見て、「美しい」と思う。
感動する。
その、「感動する心」も、
今、生きてるからこそ、感じるもので、
その「美しいもの」を見られることも、
この地上にいるからこそ。
人を愛し、愛され、
「幸せだな」と感じ、心が満たされるのを感じられるのも、
今、生きているから。
美味しいものを食べて、「美味しいな」と感じられるのも、
絵を描いて、「楽しいな」と感じられるのも、
旅に行って、生きてる喜びを感じられるのも、
仕事で、やりがいを感じられるのも、
全て、今、生きているから。
生きているからこそ、その素晴らしさが分かる。
***
「いずれ、人は死んでしまうんだから、何をしても虚しい」
そういうのは簡単だろう。
だが、物事には終わりがあるからこそ、
その瞬間を、感謝できるんじゃないだろうか?
それが一生続くなら、
その有難さも、忘れてしまうだろう。
***
「この世に、なぜ人間はいるか?」
「なぜこの宇宙はできたか?」
その答えは、多分自分が生きている間は、一生分からないだろう。
それでもいい。
それこそ、人類が、歴史を通して悩んできた問題ではないのかと思う。
その答えを知るために、
人は、色々なものを試し、この世に形を残してきた。
その、「答え」とやら--------。
その「答え」を知ることが、人間の目的なのか?
その「答え」が見つからないから、
今を不安で生きられない?
今の人生を虚しいと思ってしまう?
それは、「今」を生きることから逃げているような気がして他ならない。
答えが見つからないからと、すぐに、その「答え」が書いてある「何か」にすがってしまうのか。
それとも、自分なりの答えを見つけるために、
自ら、色々試し、考え、悩んでいくのか。
俺は、それをすること自体が、自分の人生だと思う。
***
「人はなぜ、この世にいるのか?」
その答えは、恐らく一生見つからないだろう。
しかし、
「人はなぜ生きるのか?」
その答えは、自分の生き方次第で見つけられる。
その答えは、人それぞれだろう。
彼は、神を敬い、あの世での永遠の命のために、この世での人生を生きる。
それが、彼の「生きがい」だろう。
俺は、人を愛し、人生を楽しみ、自分の成長を楽しむことが、
「生きがい」。
人ぞれぞれ、生きがいがある。
その生きがいに、ケチは付けられない。
誰の生きがいが、他の誰かの生きがいより、
勝っているわけでもなく、劣っているわけでもない。
どの人の生きがいだって、立派な生きがいなのだ。
***
「なぜ、人はいずれ死ぬと分かっていながら、人生を生きるのか?」
その質問への、俺なりの答えはこうだ。
「いずれ死ぬからこそ、今しかない、”生”を生きる。
今しかない、この瞬間を、思いっきり味わう。それだけ」
11・08・07
10時ちょっと前には、彼女は疲れたということで、先に眠ってしまった。
俺は一人で、村上春樹の本を読んでいた。
読み終わって、その感想を彼女と話し合いたかったが、それが出来なかったので、何か寂しかった。
***
さっき彼女に、普段の感謝の気持ちをこめて手紙を書いたが、
そこにも書いたように、彼女という人がいるおかげで、俺の人生は、ずいぶんと変わったと思う。
俺の人生自体はそんなに変わってないのかもしれない。
ただ、自分の考えが、そして、自分の心の満たされ方が、思いっきり変わった。
人を愛し、愛されるということが、どんなに自分の心を満たすかを、
自分の人生を、充実させるかを、実感している。
***
最近、あるクリスチャンの人と、「人生の目的」みたいなものを話し合う機会があった。
アメリカに住んでいるということもあって、俺の周りには、アメリカに来た当初から、常にクリスチャンの人が多かったたが、彼が今回、ある本を題材に、「人生を生きる目的、その意味を話し合おう」ということになったのだ。
ある日彼は俺に聞いた。
「何のために、自分はこの地球にいると思う?」と。
なぜいるか? それは分からない。
どうして、この世があるのか。
なぜ、宇宙があるのか。
なぜ、地球があり、なぜ、そこに人類がいるのか。
その理由は、分からない。
彼は言う。
「自分の人生の、本当の目的も知らずに、ただ、学校に行って、会社に勤めて、結婚して、子供を産んで、子供の成長を見守って、自分も年老いて、80歳か90歳になって死ぬ。どうせ死んじゃうんなら、そのどれも、虚しい」と。
「人は、どうせ死んじゃうんだったら、この世に何も残らないんだったら、
結局、この世で頑張って出世したり、金持ちになったり、いいモノを持ったりしても、虚しい」と。
俺は最初、この意見を聞いて、すんなりと納得ができなかったが、
どうも、その意見に、反論できなかった。
「どうせ死んじゃうんだったら、この世の中の、何物も、”虚しい”」と。
”虚しい”。 そうだろうか。
その時は反論できずに、「じゃあ、あなたは、どうこの人生をどう捉えるんですか?」と聞くと、
「この世の中の人生は、この世から自分の命が消えたとき、あの世での永遠の世界があり、そこに行くためのテストだ」と。
「神は、人間を試すために、この世に送った」と。
「そして、この世界で、神を崇拝し、よい行いをし、神が自分に与えられた”目的”をこなして、あの世での永遠の世界に受け入れられる」と。
「その、”本当の目的”を知らずに、ただこの世であくせく働いていても、ただ虚しいだけなんだよね」と。
***
俺はこの意見を聞いたとき、何か面白くなかった。
永遠の世界があるかどうかは分からないが、
それよりも、まるで、この世で、神や永遠の世界を信じない人、
彼らが言う、「神が与えられた、本当の目的」を知らずに、ただがむしゃらに働いている人、
つまり、俺を含める、そういう人たちの生き方を、下に見られたようで、
どうも面白くなかった。
「じゃあ、その、”神が与えられた、本当の目的”とはどうやったら見つかるんですか?」と聞くと、
「それは、神の存在を信じ、彼を敬い、神にお祈りすることから始まるんだよね」と。
そして、その永遠の世界とは、誰が見たのか、
そのことは、誰が、どうやって知ったのかと聞くと、
「それは聖書に書いてあるんだよね」と。
果たして、この世の中のこと全てが聖書に書かれているとは思えないが、
そうやって言う彼の意見の、クリスチャンのアイディアに反論してもしょうがない。
それは一つの「考え」で、一つのものの見方でしかない。
それは、その人たちが持つ、信条でしかない。
人の信条は変えられないし、変えようとも思わない。
ただ、自分のがいいと思うからと言って、
それを、相手にもいいはずと、
「押し付けるな」ということだ。
押し付けが始まった時点で、
その人は、相手の考えよりも、自分の考えの方がより良いと考えている他ならず、
それは、自らの考えと、相手の考えとの比較であり、
一度比べてものごとを見た後、それを薦める以上は、
結局、押し付けにしかならないのだ。
相手がいくら、自分のすすめる「それ」が良いと思っていても。
有難迷惑でしかない。
***
結局、彼とは、その「人生の目的」について、1時間ちょっと話し合ったのだが、
結局、彼の言うポイントとは、
「この世界は神が作ったものであり、
人類がこの地上に生を授かるのは、神が一人ひとりに与えられた”目的”を果たすため。
そして、その目的を果たし、ジーザスを信じ、神に仕えたものだけが、
”永遠の世界”に行ける。
そして、この世での人生とは、永遠の世界で生きるための、予行練習でしかない」と。
もう一回言うが、その考えを、否定しようとは思わない。
神がこの世に生まれた一人ひとりの人間に、その生きる「目的」というのを与えたというのは、自分もそういう風に捉えるし、反論はしない。
ただし、永遠の世界があるかどうかは、分からない。
永遠の世界で生きたいかどうかも分からない。
この世で、せいぜい80年しか生きられないからって、悲観もしない。
彼の言う意見は、「ああそうですか」と聞く以外、他に意味はない。
その考え方に反論しても、それはクリスチャンの考えだから、
何を言おうが、のれんに腕押しである。
ただ、今回の自分のポイントは、
「人は、なぜ生きるのか」ってところだった。
***
その答えが見つからず、しかし、そんなものはすぐには見つからず、
じばらく悶々としていた。
「人は、なぜこの世にいるのか」。
それは分からない。
それこそ正に、「神のみぞ知る」ってところだろう。
そこは、人類永遠の謎だと思う。
そこの、誰もが知りもしないし、分かりもしないところを、
「ほら、あなたも答えられないでしょう?でも、それは聖書に書いてあるんですよ。だから、一緒に神に祈りましょう」って言われても、
誰も答えられない難題をふっかけられて、それに答えられない人を責めているに他ならず、悪徳商売のなにものでもない。
結局彼らも、その自らが「答えられない」答えに、自分なりの回答を見つけることが出来なかったために、聖書に書いてあるものを受け入れたにすぎない。
”どこか”に書いてある、”誰か”が書いた答えを鵜呑みにするなんて、
そんなの、人生の手抜きみたいではないかと思ってしまうのは、
俺だけだろうか。
しかし、「人は、何のために生きるのか」。
この質問には、誰もが、自分なりの答えを出せるだろう。
仕事を生きがいにする人。
会社での昇進を生きがいにする人。
モノを作ることを生きがいにする人。
スポーツをすることを生きがいにする人。
料理を作ることを生きがいにする人。
人を健康にすることを生きがいにする人。
音楽を作ることを、生きがいにする人。
人を喜ばせることを、生きがいにする人。
文章を書くことを、生きがいにする人。
誰かを愛することを、生きがいにする人。
自分の家族を、生きがいにする人。
自らの人生の成長を、生きがいにする人。
違う国へ行くことを、生きがいにする人。
それぞれ、その人なりの「生きがい」が、あるだろう。
しかし、俺が話したクリスチャンの彼が、
最初に、「そのどれもが、神の存在、目的を知らずに生きている限り、虚しい」
「人生どうぜ、死んでしまうのだから、この世でどんなに頑張っても、結局は、虚しい」
そう言ったとき、どうも受け入れられなかった。
上に挙げたどの「生きがい」も、虚しいというのか?
どうせ死んでしまうのだから、何をしても、「虚しい」というのか?
まるで、自分の生き方を、そして、
人生、自分なりの「生きがい」を見つけて、頑張ってる人の生き方を、
否定されてるようで、
どうも、納得が行かなかった。
***
結局、最初に、
「何のために人は生きるのか? いずれ死んでしまうと分かっていながら」
と聞かれた質問への、自分なりの答えは、
今日出た。
それは、「人は愛するために生きる」ってこと。
俺は今の人生、満たされている。
彼女がいて、毎日一緒に話し合って、時を共に過ごして、
愛情を感じているから、
心の底が、満たされている。
彼女を「愛し」、彼女に「愛される」ことで、満たされている。
絵を描くことも、自分は絵を描くのが、「好き」だから。
絵を描くことを、「愛して」いるから。
絵を描いて、何になるわけでもない。
「どうせ、あなたは死んじゃうんでしょ?」
それはそうですよ。
でも、自分は絵を描くのが好きだから、描く。
この世の中に、自分が生み出した何かを、カタチにするのが好きだから、
描く。
描く理由なんてない。好きだから、ただ描く。
本を読むのもそう。
「楽しい」から、読む。
新しい話を知り、知識を蓄え、自分の中身が、貯蓄されていくのを感じるのが好きだから、読む。
「どうせ、あなたは死ぬんでしょ?」
そうですよ。
でも、自分が、本を読むことを通して、成長していくことを感じられるのが好きだから、読む。
人に会うのもそう。
世界を旅するのもそう。
色々なものを見て、新しい体験をして、吸収して、自分の視野が広がるのを実感して、自らが、「成長」しているのを感じるのが好きだから、旅をする。人に会う。
仕事をするのだって、生活をするために、お金を稼ぐ意外に、
その仕事を通して、自分が新しいことを学んで、成長しているのを感じるのが好きだから。
その仕事を通して、今まで見えなかった、社会の違う面が見えるようになることが好きだから。
新しい人と会って、触発されるのが好きだから。
だから、働く。
ご飯を食べるのは、生き残るために食べる以外に、
「おいしい」から、食べる。
映画を見るのは、何かを感じ取る以外に、
それ自体が、「楽しい」から、見る。
本を読むのも、「楽しい」から。
絵を描くのも、「楽しい」から。
サーフィンするのも、「楽しい」から。
そして、彼女を愛するのも、彼女が「好き」だから。
彼女のことが「愛おしく」、大事に思うから。
***
「嬉しい」「楽しい」「好き」「おいしい」
「気持ちいい」「面白い」「愛おしい」
そういう感情って言うのは、「生きてる」からこそ感じられるものであって、
これは、自分が死んでしまったら、もう感じられない。
「どうせいずれ死ぬんだから、このどれも、意味がない。虚しい」
と言う方が、”虚しい”と思う。
あの世に永遠の世界が本当にあるかどうかは分からないが、
その世界で生きることを楽しみに、
この世で生きることを、「虚しい」と感じていては、
それこそ、「虚しい」。
それは、今、目の前にあるものに向き合おうとせず、
目に見えない、「何か」を心の頼りに、今目の前にある、素晴らしいものたちから、目をそらして生きているようにしか感じられない。
海に行けば、素晴らしい夕日が見れるじゃないか。
公園に行けば、綺麗な花が見られるじゃないか。
俺はそれらを見て、「美しい」と思う。
感動する。
その、「感動する心」も、
今、生きてるからこそ、感じるもので、
その「美しいもの」を見られることも、
この地上にいるからこそ。
人を愛し、愛され、
「幸せだな」と感じ、心が満たされるのを感じられるのも、
今、生きているから。
美味しいものを食べて、「美味しいな」と感じられるのも、
絵を描いて、「楽しいな」と感じられるのも、
旅に行って、生きてる喜びを感じられるのも、
仕事で、やりがいを感じられるのも、
全て、今、生きているから。
生きているからこそ、その素晴らしさが分かる。
***
「いずれ、人は死んでしまうんだから、何をしても虚しい」
そういうのは簡単だろう。
だが、物事には終わりがあるからこそ、
その瞬間を、感謝できるんじゃないだろうか?
それが一生続くなら、
その有難さも、忘れてしまうだろう。
***
「この世に、なぜ人間はいるか?」
「なぜこの宇宙はできたか?」
その答えは、多分自分が生きている間は、一生分からないだろう。
それでもいい。
それこそ、人類が、歴史を通して悩んできた問題ではないのかと思う。
その答えを知るために、
人は、色々なものを試し、この世に形を残してきた。
その、「答え」とやら--------。
その「答え」を知ることが、人間の目的なのか?
その「答え」が見つからないから、
今を不安で生きられない?
今の人生を虚しいと思ってしまう?
それは、「今」を生きることから逃げているような気がして他ならない。
答えが見つからないからと、すぐに、その「答え」が書いてある「何か」にすがってしまうのか。
それとも、自分なりの答えを見つけるために、
自ら、色々試し、考え、悩んでいくのか。
俺は、それをすること自体が、自分の人生だと思う。
***
「人はなぜ、この世にいるのか?」
その答えは、恐らく一生見つからないだろう。
しかし、
「人はなぜ生きるのか?」
その答えは、自分の生き方次第で見つけられる。
その答えは、人それぞれだろう。
彼は、神を敬い、あの世での永遠の命のために、この世での人生を生きる。
それが、彼の「生きがい」だろう。
俺は、人を愛し、人生を楽しみ、自分の成長を楽しむことが、
「生きがい」。
人ぞれぞれ、生きがいがある。
その生きがいに、ケチは付けられない。
誰の生きがいが、他の誰かの生きがいより、
勝っているわけでもなく、劣っているわけでもない。
どの人の生きがいだって、立派な生きがいなのだ。
***
「なぜ、人はいずれ死ぬと分かっていながら、人生を生きるのか?」
その質問への、俺なりの答えはこうだ。
「いずれ死ぬからこそ、今しかない、”生”を生きる。
今しかない、この瞬間を、思いっきり味わう。それだけ」
11・08・07