February 22, 2007 11:58

「自らを受け入れること」

今日、あるメールマガジンを読んでいて思った。
その内容は、「自分を受け入れる」という事に関して、
その記事を書いている著者が、読者からの質問に答えているものだった。

読者は言う。
「わたしは、他の人と違って、自分を受け入れることができない。
こんなわたしに生まれてしまって、私は不幸だ」と。

それに対して、その著者は、
「そうやっていつまでも言っているのは、
 結局、自分を受け入れようとする勇気がない、
 自分の弱さに対する“言い訳”でしかない」と。

正にその著者の言うとおりだと思ったが、
中には、
「そんなこと言ったって、中には弱い人もいるのよ。
世の中、あなたみたいに強い人だけじゃないのよ」
なんて言う人も数多くいそうだが、
そう言ってるあなたも、結局は、自分に甘えているだけ。

なぜ俺がこんな事を言えるか?
それは、自分も昔は、自分のことを受け入れられなかったからだ。
そして、その強さがなかったから。
そして今は、そこを乗り越えたからだ。


*****


俺は元々、コンプレックスの固まりだった。
今ももちろん、弱点や弱さは沢山あるが、
それを、“コンプレックス”とは捉えない。
逆に、
“これから伸ばしてやる、もしくは、
 どんどん良くしていける、伸ばすべき点”と捉えている。

自分は中学校の頃、思春期が始まったくらいから、
急に自分に対してのコンプレックスが出始めた。

背は小さい。
目は悪い。
かっこ悪い。
不良っぽくなりたいのに、なれない。(当時はそう思っていた)
運動神経は悪い。
友達は少ない。
話はヘタクソだ。
中学一年の初め頃、
ある日母親に聞いたくらいだ。
「お母さん、友達と何話したらいいの?」
そんな事を母親に聞くほど、友達との会話に困っていた。
そう、人見知りが激しく、全然人に話しかけられなかった。

中学の二年生で、自分のクラスや同じ部活の男子たちから仲間外れにされ出し、
一時期、全く話す友達がいなかった。
それまで普通に話していたやつも、俺を避けるようになった。
誰もが俺を避けるようになり、俺と目が合うと、皆目をそらす。
誰も、俺の事をまともに相手にしてくれない。
そんな時期が数ヶ月続き、俺は完全に、対人恐怖症になった。
もう、誰とも、“普通”に“自然”に話せることは、
一生できないんじゃないか、
そう思わざるを得なかった。

自分に対しての劣等感、嫌悪感、罪悪感、
それらは益々強くなり、
自分の顔を鏡で見ては、そんな自分を憎んでいた。
そんな状況に陥って、抜け出すことのできない、
“弱い”自分に。


そんな中学時代を終え、
高校に移った。

高校では、中学で味わった思いをするのはもう嫌だと、
地元から少し離れたその学校で、友達作りに躍起になった。
しかし、まだ、「自分を素で出すこと」は、していなかった。
いや、出来ていなかった。
中学時代、人に避けられた経験が、余りにもきつかったため、
「自分」という人間を出すと、人は嫌ってしまうんじゃないか、
そんな自分を嫌がって、また避けだしてしまうんじゃないか。
「俺」という本当の人間を知ってしまったら、
きっと、また、その人も、
俺の事を嫌がって、避けだしてしまうんじゃないか。
そんな恐怖感と、劣等感があった。
高校一年の初めの頃なんか、
誰かと話していると、
「この人は、“こんな”俺と話してくれている。
 この人も、中学時代に俺に起きた事をしったら、
 きっと、俺の事を避けてしまうんじゃないか」
そんな事を考え、ビクビクしていた。

しかし、そういう感覚も、段々なくなり、
高校2年に入る頃には、もう、自分に対しての、「劣等感」みたいなものは、
そこまでひどくは無かった。
しかし、俺はいまだに、人に、「“素”で話すこと」を出来ないでいた。
そう、素の俺を出したら、
昔の様に、きっとまた嫌われてしまう。
そう思う自分がどこかにいて、
無意識的に、誰に対しても、ナイスにしていたのだ。
何があっても、ナイスならば、
その人は、俺を嫌うことはないだろう?
そう、そんな付き合い方をし出すうちに、
俺は、人に対して、「怒れなく」なっていた。

何があっても、我慢する。
何があっても、ナイスでいる。
しかし、そんな付き合い方には、無理があるに決まっている。
そうして、そんな“ナイス”な俺を気に入り、
その“ナイスさ”につけ込んで、俺の事を利用しようとするやつが、
必ず出てくる。
そういう奴が出ると、それまで心が無理を言っていた俺は、
遂にあるラインを過ぎると、その我慢が爆発して、
その人に対して、思いっきり怒るか、
もしくは、自分から連絡を一切取らないようにするようになってしまっていた。
そう、そんな悪循環な“人付き合い”の図が出来上がってしまっていた。


俺自身は、そのサイクルに、気付いていなかった。
つい、この間の夏まで。

「良い人俊君」
「ナイスなやつ」

そんなイメージばかりが自分を付きまとい、
俺は、自分自身に混乱していた。
俺は、そんなにナイスなのか?
しかし、俺のことを利用しようとするやつが出だすと、
完全にシカトをしてしまうか、
思いっきり怒りをぶつけてしまう。
なぜだ?
何がいけない?

そんな感じで、人との付き合い方に、
いまだに自信を持てない自分がいた。

“自分がナイスにしていれば、相手もナイスなはず”
そんなことを無意識のうちに、中学の頃から身に付けてしまったのだと思う。
自分では、別に“ナイス”にしようと、いつも振舞っているわけではない。
ただ、元来の俺の性格が、こうなのだ。
問題だったのは、中学以来、人に対して、
“怒るべき”時に、“怒れなく”なってしまったこと。
そんな自分でいては、人は、
「こいつは何をしても、何を言っても、
 ニコニコして、いつも優しく、何でも許してくれる」と思い出す。
それが普通の人間の反応だ。
そして、中には、
そこにつけ込もうとする人間は必ず出てくる。
俺だって、そういう人がいたら、そうしてしまうかも知れない。
そうしてしまうのは、自分という“人間”が弱いからだ。

そしてそこで、相手が一線を越えて、俺の事を利用しだすと、
俺はもう、そいつとは付き合えない。
そんなギリギリのラインを渡っていた。



しかし、去年の夏、カンボジアの遺跡の上で、
朝、日の出を迎え、じっくりとその場の空気を味わった後、
アンコールワットの上から見える、向こうに広がる、
大自然の景色を見ていたとき、
やっと気付いたのだ。
「今までの俺の、“人との付き合い方”には、無理があった」と。

そんな付き合い方をしていては、一生、
“本物”の人間関係はできない。
それはなぜか?

なぜなら、俺のそれまでの付き合い方っていうのは、
自分自身が、つまり、“俊輔”っていう俺自身が、
自分のことを、100%見せていなかったから。
相手に対して。
いつも、自分のことを、80%くらいしか見せていなかった。
残りの20%は、隠していた。
自分では全部出しているつもりだったけど、
それでも、まだ、全部出し切れていなかったんだ。
なぜか?
それは、全部出し切ったら、
そんな自分を嫌っちゃうんじゃないかと、
心の奥底で、恐がっている自分がいたからだ。
その自分は、中学2年の頃に、心に傷を負った、自分だった。
その自分の存在に、俺は、去年の夏、
つまり、22歳の夏まで、気付いていなかった。
13歳の秋に、友達に避けられ始めてから、
かれこれ、10年近く、
その自分を、背負っていたのだ。

だからこそ、去年の夏までの俺は、
自分を全部出し切れず、一部を偽り、
その部分を、自らの理性で作り上げた、
「ナイスな俊」で演じていた訳だ。
だから、人は言っていた。
「俊は何をやっても怒らない」と。
怒らないわけないだろう。俺だって怒りは感じる。
ただ、その怒りを、表に出せなかったのだ。
出すと、その自分に対して、反発するやつが出るんじゃないか。
そいつが、俺の事を避けだすんじゃないか。
そう、恐れを感じていた自分がいたのだ。
そんな自分にも、俺は気付いていなかった。


去年の夏は、就職活動を始めたり、
新たな人との出会いが沢山あったり、
その時付き合っていた彼女と別れたりと、
色んなことがあった。
そんな中、どうして、
自分の「人間関係」は、うまくいかないのか。
どうして、相手も自分に、“いつまでも”ナイスにしてくれていないと、
そして俺自身も、その人にナイスにしていないと、
うまく続かないのか。
そんな事を、考えていた。

そして気付いた。
俺自身が、自分を100%出していないから、
相手も、100%出し切れない。
相手は、80%と残り20%偽りの俺を、「俊輔」と見なし、
その「俊輔」と付き合っている。
その「俊輔」像が壊れたとき、
相手は、ショックを受け、
俺も、相手が、その20%の部分に入り込んだとき、
怒りが爆発するか、もしくは、
相手を完全に拒否してしまう。


いくつもの会社から内定をもらい、
誰もに、好かれる。

「キミにはぜひうちに来てもらいたい」
「◯◯君には、ぜひ私たちと一緒に働いてもらいたい」
「◯◯、俺と一緒に世界を周ろう」

そんな事を言われまくった。

「あなたは印象も良く、とても良い感じだ。
ぜひ一緒に働きたい」

しかし、俺自身は、心のどっかで気付いていた。
そんな、面接の場で見せている俺は、
試験に受かるために取り繕っている、フェイクの「俺」であったこと。
つまり、20%を偽っている、いつもの「俺」だったのだ。
その俺を気に入られて、入社しても、
俺はいずれ、爆発する日が来る。
なぜなら、その「俺」は、本当の「俺」ではないから。
そして、相手=会社は、その少し偽りが混じった俺を、
「俊輔」として見て、対応しているのだ。
そうやって入った会社は、
必ず、窮屈に感じる日が来る。


また、常に100%、“自分自身”でいられないというのは、
ある意味、自分という人間に、完全な「自信」が持てていないからでもある。
それまでの俺は、何か自分がヤバイ状況に陥ったりすると、
「誰か」他の人になろうとしていた。
その状況で、一番、うまく出来そうな人を思い出しては、
その人になり切ろうとするのだ。
しかし、そんな事を続けていては、
いつまで経っても、俺は、「俺自身」にはなれない。


*****


とにかく、アンコールワットの上で、
今まで自分が繰り返してきた、「人付き合い」の悪いクセに気付き、
そして、タイから中国に行く、飛行機の中で、
自分の心の傷が、13歳から、癒されていなかったことに気付いた。
その傷を癒す方法はただ一つ。
自分自身が、その傷を、“まだ負っていた”ということに気付き、
その傷を負った自分を、
「受け入れてあげる」ことだ。
その傷を負ってしまった自分を、いつまでも責めていたり、
“そんな傷を負ってしまったなんて、自分はなんて情けないんだろう”とか、
“俺はそんな傷なんか、負っちゃいねえ。俺はそんなに弱くないんだ”なんて、
いつまでも強がっていては、
その傷は、ますます化膿していくばかりだ。

しかし一度、その傷を、自分が負った事を受け入れ、
その傷を負ってしまった自分を受け入れ、
当時の弱かった自分を受け入れ、
そして、その傷を負ったことは、悪くなかった、
“自分をもう責めなくていいんだ”と、
自分自身を、受け入れてやること。
当時の自分自身を、慰めてやること。

それが出来て、
初めて、その傷は、癒され始める。


*****


去年の夏を終え、俺自身は変わった。
今まで自分を抑えて、相手に合わせていたものも、
“自分”を出すようになり、
自分のニーズは、口に出して言うようになった。
そう、残りの20%も、出すようにし始めたのだ。
もちろん最初は抵抗があった。
何せ、13歳から、10年間、
ずっと、その20%は、伏せていたのだから。
その中には、いざという時は、怒りを見せる自分も含まれる。
相手に、変に気を使わない自分も含まれるし、
自分の用があるのに、相手に気を使って、
無理に自分を相手に合わせない自分も含まれる。
そんな自分を見て、「俊は変わった」と言う人たちも出だした。
彼らは、俺の事を、批判し始めた。
昔の俺では、もう無かったからだ。
しかし、その、「昔の俺」とは、「本物の俺」ではない。
彼らの好きな、「いつもナイスな俊」で通していては、
彼らに一生好かれようが、俺は一生、「俺自身」になれない。
いつまでも、人に好かれるために、自分自身に嘘を言い続けて、
自分の人生を生きることになってしまう。


そんな訳で、去年の夏以降から年末にかけては、
自分と、周りとの戦いだった。
今までの“自分”を出してしまおうとする自分がいる。
今までの“自分”でいてほしい周りがいる。
本当の自分を出さなくちゃいけないと分かっている“自分”がいる。
しかし、中々出せない“自分”がいる。
徐々に、その“自分”を出し始め、
生まれだした批判を、恐がっている“自分”がいる。
その批判を消し去るために、もとの“自分”に戻るのか、
それとも、本当の“自分”を出し続けるのか。
そんな中、それらの「批判」が恐いが故に、
自らを抑えることは、
その批判さえは一時的に消えるものの、
自らの心は、一生、叫び続ける、ということも分かった。
そんなのは、周りの事を気にして生きている以外、何でもない。
周りの批判が恐いから、自らを相手に合わせるなんていうのは、
「自分」という、一番大事な人間に、
一番、嘘をついている以外に他ならない。

そんな人生を送るのならば、
周りに批判され続けようが、
自らを出して生きる人生の方が、ずっと良い。
それに気付いたのも、その時期だった。


そんな訳で、去年の秋学期の俺は、あんなにも悩んでいたわけだ。
当時のブログを読むと、「思いっきり悩め!」とか、
そんな内容ばっかりだ。
あのブログは、自分の感情の、ほんの一部であって、
当事の日記には、今見返すとビビるぐらい、
自分の心の中の葛藤が、延々と綴られている。
この前見返して、
「あれ!?おれこんなに悩んでたのか!?」なんて、
自分がびっくりしたくらいだ。笑
それぐらい、当時の俺は、悩んでいた。
そう、自分と葛藤していた。


しかし今は、己の心に、一切迷いはない。
なぜか?
自分の心と、和解したからだ。
そして同時に、「何も証明することはない」という、
自らの結論にも達したのだ。
去年までの俺は、なんとか、
自分を認めてくれないやつに、何とか自らを主張しようと、
書かなくてもいいことをブログに書いたり、
どこか、まだ、肩ひじ張っていた。
しかし今の俺は、もうそんなこともない。
別にカッコつけようとも思わないし、
このブログに書く事だって、自分が思ったままに、
自らを偽らず書いてるし、
誰が読んでも、気にしない。
これを読んで、誤解されても、関係ない。
そんな誤解は、ただの「誤解」であって、
俺と直接話せば、分かるんだから。
それに、何を言われようが、関係ない。
こんなブログなんてのは、
ただの書き言葉であって、
実際の俺は、直接会って話してみるまでは、
その人は、一生理解しきっこないのだから。



今の俺は、弱ささえも全て見せる。
クローゼットにすんでる事も見せるし、
嬉しかった事も、悲しかった事も、
怒りも、笑いも、
全て見せるだろう。
毎回、テイストは違うと思う。
しかし、全てが、俺の“一部”な訳だ。
そして、それらは、俺のほんの“一部”でしかないと言うことも、
お忘れなく。
ま、みなさんお分かりでしょうけど。^−^


話がめっちゃ長くなっちゃったけど、
そんなわけで、「自分を受け入れること」。

今の自分がどんなであれ、
その自分を、心から受け入れて、初めて、
“自分”という人間の、本当の人生がスタートする。
自分自身を心から受け入れられるまでは、
それは、誰か他の人の人生を歩んでいるようなもの。
今のあなたの人生は、あなたの体で、
あなたの心で、あなたの性格で、
「あなた」しか持ち得ない。

そんな、特別な、世界でたった一つの「あなただけ」の人生を、
あなたは、今、歩めるわけだ。
あなた以外にその人生を歩まずに、
誰が歩もうか?

まずは、自分が、「自分」という固まりを、受け入れることだ。
そして、その固まりが持つ、「魅力」を、
心から受け入れ、認め、信じ、
後は、一歩ずつ、毎日踏み出していくだけ。
それをしていけば、ある時、
自分を、心から好きになっている自分がいることに、
きっと、気が付くはず。


2・22・07


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