March 07, 2007 22:19

「歴史を学ぶ」


最近、本を読むこと、
特に、歴史を学ぶことが楽しくてしょうがない。
2月の頭に中米から帰って来てから、
よく本を読むようになった。
高校くらいまでは、つまりまだ日本にいた頃は、
しょっちゅう図書館や本屋で立ち読みしていたが、
こっちに来てから、余り本を読まなくなった。
日本語の本が手に入りにくいってのもあるが、
今はLAに住んでいる。日本語の本だって、簡単に手に入る。
アマゾンなどのオンラインだってあるし、「手に入りにくい」ってのは言い訳。
じゃあ何故読まなくなってたか?
答えは、インターネットに走ってたから。
E−mailや、ブログ、
それからGoogle.
何でもサーチして、“情報”がすぐに入る時代。
わざわざ、本をじっくり読むのは、面倒くさくなっていた。

また、高校までは、本を読みまくってはいたが、
実際の“経験”が無かった俺は、いわゆる頭でっかちヤロウだった。
しかしこっちに来て、色々な経験を積むようになり、
段々と、自分の「経験」の量と、「知識」の量が、
相対してくる様になった。
そして本を読まない自分は、いつの間にか、
今度は経験値ばかり増えて、知識のない、
「脳みそ空っぽクン」となっていた。

誰かと何かの話をしても、話題に付いていけない。
一時期、「何で俺はこんなに、何も知らないんだろう」と、
自分がどこでこんなに手を抜いたのか、自分の過去を疑った時期もあった。
去年の今頃だったかな?

で、旅を続けたり、色々な国に行ったりして、
自分の「経験値」はますます増えて行き、
要するに、自分の“容量”が広がった。

俺のイメージとしては、人間ってのは、
経験値が多ければ多いほど、
その人が受け入れられる情報や、知識、問題の大きさも大きくなって行くもので、
いくら本ばっかり読んで知識があっても、
外に出て、自ら体験をしていない者の言葉には、
やはりコトダマがないし、
(だってその人は、自らの経験からものを言ってる訳ではないからね)
かと言って、いくら経験値や体験が多くても、
知識が全くなしでは、やはりバランスが悪いというもの。
その人は、いつも、「感覚」でしか物事を言えないからね。
もちろん感覚だけで生きていてもいいんだが、
今までに起きた事などの「歴史」などは、
自ら勉強していく以外に方法はないからね。

俺は一時期、「感覚」で生きていた時期があった。
今も自分の直感や感覚を大事にしているが、
その頃は、バランス悪く、全て感覚で行こうとしていた。
しかし、例えば新しい国を旅した場合、
その国についての知識があるのとないのとでは、
雲泥の差が出来るのだ。

その土地の人々が、どうしてそういう暮らしをしているのか。
なぜ、そういうものを食べ、
どうしてそういう服装をし、
なぜそういう考え方に至ったのか。
彼らがその様に生活する理由とは?

全てが、その人たちの「歴史」に関わってくる。

*****

今回、中米を旅し、
金もなく、余りどこへも行けなかったので、
俺は本をよく読んでいた。
そうして、また“読書”というものの楽しさに気付き始めた。
同時に、スペイン語もろくに喋れず、
言葉も思うように通じないため、
その国のこともよく分からない。
よって、その国の歴史をよく調べた。
すると、なぜ今、その人たちが、“そうなった”のかが、
段々と見えてきたのだ。

今までの旅は、ただ、人に会ったり、
美術館を巡ったり、
遺跡を見たりするだけの旅だった。
それらの旅は、大した知識がなくても、
その人やものを目の前にして、その場で一時的に得た知識や、
その時の感覚で、
いくらでも楽しめてしまう。

しかし、今回のように、
その国の人々が、
“なぜ”、そうなったのか。
どうしてそういう生活様式になって、
どうしてそういう考え方で、毎日を生活しているのか。
そういう事を深く問い詰めていくと、
今までにその土地で起こった歴史が、
全てを物語ってくる。


そんな訳で、一ヶ月前にアメリカに帰って来た後、
ひたすら本を読み始めた。
中々進まないが、どんどん自分の“知識”が、また増えていく。
まるで、今まで思いっきり広げてきた、「自分」という容積が、
知識がないため空だったところに、
どんどんと、“知識”という水が満たされていく。
そんな感じだ。

同時に、今まで体験してきたこと、
見てきたもの、場所、
肌で感じてきたこと。
そういうものが、自分の感覚で、
「何となくこうなんじゃないかな?」と思ってきたことが、
本を読み、歴史を知り、その人たちについて書かれた本を読むことにより、
「ああ、やっぱりそうだったんだ!」と、
明確になる。
そう、まるで、数学の公式を知らずに、
自らの体験より、答えを導き出し、
公式が分からないところで、
教科書を見て、その公式を目にし、
「ああ、やっぱりね!」と、今までの自分の思考回路を、
クリアにしてもらった、そんな感じ。


同時に、歴史を学ぶ事は、
自分の「考え方」の幅、そして、「視野」を広くしてくれる。
今から500年前に、人々は何を考え、どう生きてたのか?
今から1000年前は?
今から10年後、20年後を読むには、
今から10年前、20年前の人々の、
その当時の“常識”、“人々の考え”を知り、
その過程を追って、今から先を、自ら想像し、予測する必要がある。
どの分野に置いてもそうだが、
例えば、ビジネスで成功しようと思ったのなら、
今流行りのビジネスに手を染めようと思ってるのなら、もう遅い。
それは、波で言えば、
すでにピークポイントは過ぎて、これから小さくなっていく波に、
頑張って乗ろうとしているようなもの。
本当に時代を先取りたかったら、
今までの過去の“常識”に捉われていては、もちろん過去の化石だし、
今の“常識”で物事を考えていても、時期にそれがダメだったことは、
すぐに分かるだろう。
常に、10年先、20年先、30年先を読み、
そこから、今に帰ってきて、それでアクションを起こさなきゃいけない。
それをするには、もちろん、今までの過去の流れを勉強し、
その流れから、今から先の波を読む先見性が必要だ。


同時に、歴史は、自分の生き方まで考えさせてくれる。
例えば、戦国時代、
織田信長、豊臣秀吉の生き様を見る。
彼らが何歳で何を成し遂げ、
その時代の“常識”の中、
彼らがやったことは、いかに常識離れしていたのか。
彼らが“一般人”に何を言われ、その中で、
己を見失わず、先を読み、
どう動いていったのか。

どの時代の先人たちも、
賢く、先を見据えていた人たちほど、
その当時の一般人に笑われ、バカにされていたものだ。
なぜなら、その当時の“常識”からは、到底思いもよらない考えを、
その先人たちはして、そしてそれを行動に移していたから。
そんな人たちの、発想、先見性、
目の付け所を学ぶ、参考にする。
それが、自分の人生の生き様、考え方、
そして、“今”という、2007年から先を、どう生きていくかの、
ヒントをもらう事となる。


しかし、どれだけ知識を得ようが、先人の知恵を得ようが、
最後には、“自分”で行動するしかない。
いくら凄い「自転車乗り方マニュアル」を手渡され、
それを何度も熟読しようが、
実際に自ら、自転車をこぎ出すまでは、
一向に走れるわけもないもので・・・




最終的には、
自ら体験し、経験値を増やし、
同時に、知識も手にいれていくこと。
そして、その“知識”を、自らの“体験”とブレンドさせ、
自分だけの、最強の“知恵”を身につけていくことだ。

どれだけ凄い先生を持とうが、
どれだけ凄い師匠に教えを乞おうが、
自ら、その教えを噛み砕き、
そして、自ら、修行をして、経験値を増やすまでは、
その教え被った“知識”は、
一生、“知恵”とはなることは無いだろう。



長くなってしまった。

3・7・07


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